哲学

人はなぜ死を怖がるのか---死の害の形而上学

日本大学 文理学部 哲学科 鈴木 生郎 准教授

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この記事でわかること

私たちは、死を怖れ避けようとします。
夢を叶える未来や、大切な人と過ごす時間、まだ知らない楽しみといった可能性を奪うので、「死が私たち自身にとって害悪である」と考えることは自然なことです。
では、私たちはその死の害を「いつ」被るのでしょうか。
「私たちが生きている間、死はまだ来ていない。そして死が来た時には、もう私たちは存在しない。だから死は私たちに害を与えられない」という考え方があります。それでも、多くの人は死を怖がったり、惜しんだりします。
この矛盾を時間に関する2つの理論を使って解き明かします。

矛盾する2つのテーゼ

私たちは普通、「死ぬのは嫌だ」と考えますよね。
死んでしまったら、本来生きていたはずの未来の期間が無くなってしまうからです。

たとえば、赤ちゃんが生まれたばかりなのに、そのお父さんが突然死んでしまったら、「お父さんは、子どもの成長を見届ける機会を『死によって奪われた』」と言えます。

つまり、私たちは死について、「享受できたはずの望ましいことを剥奪する害」と考えることができます(これを剥奪説といいます)。さらに、お父さんが赤ちゃんの成長を見届ける機会を奪われているのは死んでしまった後のことなので、お父さんが剥奪の害を被るのは、「死んだ後」だと言いたくなります。
人が死んだ後に死の害を被るというこうした考えのことを、ここでは「死後の害のテーゼ」と呼ぶことにしましょう。

テーゼとは、一つの考え方を明確に述べたもののことです。
哲学では、こうしたテーゼ(あるいはさまざまなテーゼ)を議論を通じてしっかり検討していくことで、より根拠のある考えに至ることが目標とされます。


さて、一方で「終焉のテーゼ」というものがあります。
これは、「人は死ぬと存在しなくなる」という主張で、これも自然な考えですね。

となると、先ほどの例にたとえると、死んだ後に「お父さん」が跡形もなく消えてしまうのなら、「害を被るお父さん」がどこにもいないことになり、存在しない人間に「死の害」を与えるという矛盾が生じます。

価値ある未来に自分が「不在」

そこで私は、現代の哲学(形而上学)の道具立てを使って、この2つのテーゼの矛盾を解く方法を考えてみました。
「三次元主義」と「永久主義」という2つの理論の組み合わせです。

まず、三次元主義とは、人間は「いま」という瞬間に心も体も100%存在していて、死んだらその後の時間のステージ上から完全に姿を消す、という考えです。

一方の「永久主義」は、宇宙の始まりから宇宙の終わりまで広がる時空間を箱のようなものと考えたときに、その中に含まれているものは(現在からみて過去に存在したものも未来に存在するものも)すべて実在するという考え方です。
こうした箱のように捉えられた時空間のことを、哲学や物理学では「ブロック宇宙」と呼んだりします。

この2つを組み合わせると、次のように考えることができます。

死んだらお父さんの肉体はもちろんそれ以後のブロック宇宙からは消えてしまうわけですが(三次元主義)、ブロック宇宙にはきちんと含まれているものであることには変わらないので、「実在している」ものだと言えます(永久主義)。
このように考えることで、死んだ後であっても、ブロック宇宙の中に実在する「お父さん」が害を受けているのだと言えるようになるのです。

では、お父さんは「いつ、どんな害」を被っているのでしょうか?

赤ちゃんが10歳になった「10年後の未来の時間」を想像してみてください。その未来の時間は、ブロック宇宙の一部として、成長した子供がそこにいる未来のステージとしてちゃんと実在しています。しかし、そこにお父さんの姿はありません(不在です)。

本来ならそこにいて我が子の成長を見られたはずの「未来のステージ」。
そこに自分が「いない(不在)」。
この「引き算の状態」そのものが、お父さんが未来を奪われている(死の害を被っている)ことの根拠なのです。

これなら、「死んだら存在しない」ことと、「死後の時間において害を被る」という2つの主張が矛盾なくきれいに結びつきます。

すべての学問の根っこにある哲学

このように、「時間や存在といった、とても抽象的なものの本質や、その原理を明らかにする」のが、哲学における「形而上学(けいじじょうがく)」という分野です。科学のみによっては解決しない問題を、思考の力によって探究します。

一見、理屈っぽくて現実の役には立たないように見えるかもしれません。しかし、今回のお話も、「本人が気づいていなくても、人生の可能性を奪うことは絶対に良くないことだ」という、私たちにとって大事な倫理的な考え方の論理的な証明に生かすことができます。
私は、「自分が死ぬことが自分にとって悪いとしたら、いつどのように悪いのか」「死なないことは本当に良いことなのか」「何が良い人生なのか」という問題に関心を持って研究をしています。

誰かが決めた正解をそのまま受け入れるのではなく、自分自身の言葉で、自分が信じるべきことを納得して決める。それも哲学の重要な役割です。

哲学は、「人間の思考の限界を広げるための筋トレ」のようなもので、「自分で深く考えるための強力な武器」になります。あなたも日本大学の哲学科で「究極のそもそも論」を一緒に考えてみませんか。

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